「あなた、何か証拠あるんですか?」
現代社会で何かを主張する時、まず求められるのは“証拠”である。SNSで発言すれば「ソースは?」と聞かれ、就活で「やる気があります!」といえば「それを示す具体的なエピソードは?」と詰められる。
そんな現代において、ドラクエ1の勇者のスタートはあまりに異質だ。なにせ彼、何の証拠も持たずに「自分、ロトの子孫です!」と名乗っているのである。
そして王様は「ならば竜王を倒してこい」と言って、いきなり世界の命運を託してくる。普通に考えておかしい。でも、それがドラクエ1なのだ。
「面影がある」だけで納得する周囲
彼がロトの血を引くという証拠は、なんと“顔が似ている”だけ。たいようのいしの老人が「ロトの面影がある」と言ってくれるが、それ以外はノーエビデンス。しかも、その老人はロト本人を見たことがあるわけではない(はず)。
しかも当時はアレフガルドの人々も彼を疑っており、「証拠はあるのか?」と尋ねてくる。全方位から「ほんとに勇者か?」と言われながらも、彼はめげずに旅に出る。
いま思えば、これは完全に“鋼メンタル”の持ち主である。
「証拠なし・支援なし・仲間なし」の三重苦
考えてみれば、ドラクエ1の勇者が直面するスタート条件は鬼畜そのものだ。
現代ゲーマーがチュートリアルで苦戦してるのを見るたび、「ドラクエ1勇者、よく耐えたな…」と尊敬の念しかない。
しかも初期装備はなく、武器防具を買うお金すら足りないこともある。もう一度言う、「証拠がない」のに、「国の命運」を託され、「一人で旅立つ」のである。
加えて「ラリホー必中」や「ホイミ1回でMP切れ」など、理不尽要素までセットである。旅の道中も決して優しくなく、回復のためには地道な金策が必要だ。今で言うと、「課金アイテムなしのハードモードに突入する勇者」である。
竜王の誘惑にも動じない(かどうかはプレイヤー次第)
ラスボスである竜王は、戦闘前に「世界の半分をやろう」と誘惑してくる。しかもこれ、「はい」と答えられる。
選択肢があるということは、それだけ彼の心に葛藤がある設定でもおかしくないということだ。
いや、人によっては「旅の途中で心が折れて、竜王側に寝返る」選択をしても納得感すらある。
だが、通常のストーリー展開では「いいえ」を選び、自らの手で世界を救う道を選ぶ。
この時点で、彼の“鋼メンタル”が完成するのだ。
しかもこの選択肢、実はFC版だと「はい」と選んでもゲームがループするというトラップ付き。つまり、真のエンディングへたどり着くには「いいえ」を貫く意志力が必要ということ。プレイヤー=勇者の精神試されまくりである。
自分の国は自分で探す、謎のポリシー
エンディングでは、王様が王位を譲ると言ってくれるのだが、彼はこう返す。

「わたしの おさめる くにが あるなら それは わたしじしんで さがしたいのです」
えらくストイックで哲学的で、そしてちょっとカッコよすぎる発言。
現代で言えば「内定辞退して、世界一周行ってきます」的な行動だ。
しかもその行動が、DQ2へと続く「王国建国」の伝説になるのだから、とんでもない話である。自分探しから始まって国作り、そして子孫が世界を救う。このスケール感、まさに異次元。
現代だったらSNSで叩かれてる説
彼のこの行動を現代に置き換えると、色々ヤバい。たとえば
これ、現代だったらSNSで炎上案件である。 「意識高い系」「根拠なき自信マン」「コミュ障勇者」と揶揄される未来が見える。
でも、プレイヤーは彼の物語を通して「本当の勇気ってこういうことかもな」と思える。
ちなみにローラ姫との関係も、今だったら「ヒロイン押しかけ問題」として議論が巻き起こるかもしれない。勇者に好意を寄せる女性が、救出イベント後に自宅に転がり込んでくる展開。今なら地上波ドラマで苦情殺到レベルである。
実は“最も未熟な勇者”だったからこそ
ドラクエ1の勇者は、後の作品に登場する勇者たちと比べて特別な力も派手な呪文もない。MPはゼロから始まり、最強呪文はベギラマ、最強回復はベホイミ。それでも、旅を完遂し、竜王を倒す。
これはつまり「未熟な状態から努力で成し遂げた物語」である。
DQ3の勇者のように運命づけられた存在でもなければ、DQ11のように時の運命を背負っているわけでもない。だからこそ、彼の冒険には“等身大の成長物語”としての魅力がある。
【結論】証拠なんて、後からついてくる
ドラクエ1の主人公は、何の証拠もない。ただ信じた道を突き進んだ。
途中で誰かが「ロトの面影がある」と言ってくれる。でも、それは旅を続けたから得られた“後追いの証拠”に過ぎない。
今の時代、何かを始めるには「実績」「資格」「他者評価」が求められがちだ。
でも、ドラクエ1の勇者は教えてくれる。
「証拠なんて、歩き出した後に手に入れればいい」
そんな彼だからこそ、多くのプレイヤーの記憶に残る“伝説の始まり”となったのかもしれない。